小学校低学年の時の夢は、「大学の先生」でした。
「一番すごい先生は何の先生?」
「大学の先生かしらね」
「じゃあ、僕、大学の先生になる!」
というやりとりを母と交わしたのを覚えています。
「すごい先生になりたい」という野望は小学校低学年の時から、
今も変わらず持ち続けています。
まさに根っからの先生です。
きっかけは2歳離れた妹・4歳離れた弟にいつも勉強を教えていた、
という家庭環境にあったと思われます。
父が事業に失敗し、
かつ同時期に連帯保証人になった友人が雲隠れし、
多額の借金を抱えていたようで、家はとても貧しかったです。
両親共働きだった(父親は毎朝新聞配達を、母親はパートを3つも掛け持ちしていた)ので、
妹・弟の面倒を見ることが多かったのです。
でも、面倒を見るのは嫌いじゃなく、むしろ大好き。
友達の遊びの誘いを断って、妹・弟と遊んだり、勉強を教えたりしていました。
勉強を教える時が一番楽しかったのを今でも覚えています。
「分からない」ことが「分かった」とき、人は「なるほど~!」と笑顔になります。
僕はその笑顔を見るのが大好きでした。
そのうち、妹・弟だけじゃ満足できなくなり、
小学校高学年の時、近所に住む低学年の子どもたちを家に呼んで、
「けんちゃん塾」と名前をうって、よく勉強を教えていました。
今でも覚えているのは、
「近くのものはthis、日本語でいうと「これ」、遠くのものはthat、日本語でいうと「あれ」なんだよ」
という英語の授業。
中学に入って、習いたての英語を小学生や妹・弟にドヤ顔で教えていました。
親に初めて買ってもらったクリスマスプレゼントが、
「小さいホワイトボード」でした。
パソコンのデスクトップの画面位の大きさのホワイトボードでしたが、
子どもが子どもに教えるには十分でした。
憧れの黒板に見立てて、部屋に飾り、それを毎日ニヤニヤ眺めていたのを覚えています。
(その後22歳でようやく本物の黒板を購入して狭い1DKの部屋にむりやりつめこみ、
ニヤニヤ眺めることになりますが、この黒板を飾りたがる性格は10年間変わらず一貫していました)
中学前半は、「先生になりたい」と周りによく言っていました。
仲のいい友達3人と、こんな話をしたのを覚えています。
友人A「俺は、音楽の世界でトップとる」
友人B「俺は、日本一の社長になる」
僕「俺は、日本一の先生になる」
友人A&B「先生に日本一とかないやろ~!(爆笑)」
次の日から、あだ名が「GTS」になりました。
(当時、『GTO(グレートティーチャー鬼塚)』というマンガが流行っていました)
中学後半から、グレました。
グレたといっても、「ヤンキー」と呼ばれるほどではないのですが、
髪の毛を染めてみたり。
ダラしない恰好をしたり。
先生に反抗的な態度をとったり。
「不真面目に振る舞うこと=カッコイイ」という価値観になっていました。
当然、先生から目をつけられ、
怒られ、信用されなくなり、
僕の方でも、先生に対して嫌悪感を抱くようになりました。
「先生」という職業にマイナスな感情を持ち始め、
いつしか、「先生になりたい」という夢を忘れていきました。
さきほどの友人Aと友人Bも一緒の高校に行ったのですが、
途中で2人とも高校を中退してしまいました。
他にも仲のいい友人が何人も中退し、僕だけ残ってしまいました。
高2の3学期始業式の日、
学校には行ったものの、夢もない、友人もいない、という状況で僕が思ったのは、
「僕も辞めよう」でした。
このまま学校にいても意味がない。
夢がなければ大学に行く意味もない。
大学に行きたくなったら、その時、大検をとればいい。
そう考えたのです。
始業式の途中のトイレ休憩で、そのまま家に勝手に帰ってしまいました。
夕方、担任の先生から電話があり、
その時、「辞めます」と告げ電話を置きました。
僕はすぐに髪を金髪に染め、自由に遊びまくっていました。
「自由だ!」と解放感でいっぱいでした。
しかし、遊びまくるにつれて、だんだんとそんな自由も虚しいものになっていきました。
結局、場所は関係なかったのです。
「夢がないこと」が問題だったのです。
そんな時、担任の先生から電話がかかってきて、
「気が済んだか?まだ間に合うから戻ってこい」と言って頂けました。
退学の手続きをせず、
ずっとただの休み扱いにしてくれていた先生に申し訳なく思い、
また高校に戻ることにしました。
しかし、だからと言って、真面目になるわけではありませんでした。
結局、僕は夢がないと、頑張れない人間のようです。
高校3年時にの英語の偏差値は35。
大学は絶望的で、その後2浪することになります。
予備校は、代々木ゼミナールに通いました。
代々木ゼミナールでは、
斬新な授業・分かりやすい授業・面白い授業がたくさんあって、
勉強の面白さを感じるようになりました。
代々木ゼミナールで数々の素晴らしい授業を受けて、
「先生になりたい」という夢がよみがえってきました。
「まさに、これこそ自分が目指していた姿だ。あるんだ、”先生”で日本一を狙える場が。」
代々木ゼミナールの講師の活き活きと授業する姿を見て、
それ以降、僕の夢は「ナンバーワン予備校講師」になりました。
夢が明確になってからはひたすら勉強しました。
一日4時間睡眠を続け、高校までの交友関係も一切絶ち、精神的・身体的に限界まで自分を追い込みました。
しかし、結局また受験した大学全てに失敗し、2浪することになります。
僕はここで2つのことを学びます。
①「気合いだけ」では伸びない
②「分かりやすい授業だけ」では伸びない
例えば、英語では単語を疎かにし、文法ばかりをやっていました。
日本史では流れを重視し、用語の暗記を怠っていました。
「一定期間で結果を出す勉強」でやってはいけないのは、
自己流でやることです。
自己流はうまくいく人もいますが、実は失敗する人の方が圧倒的に多い。
バランスをとりながら勉強するのはものすごく難しく、
つい偏った勉強・効率の悪い勉強をしてしまいます。
僕は友人を作らず、徹底的に孤立していたので、
自分の勉強のベクトルがずれていることに気づきませんでした。
そのため、いくら勉強してもなかなか思うような結果が出ませんでした。
また、「分かりやすい授業」だけで安心してしまっていたのもいけませんでした。
授業を聞いて納得することと、実際に自分が問題を解けることは別問題。
もっともっと演習を繰り返すべきでした。
この経験から、「本当に成績を上げる講師」になりたいと思うようになりました。
僕はずっと北九州大学一本でした(推薦試験を含めて3回受けています)。
どうして北九州大学を選んだかというと、
北九大のESSという英語学習サークルが、
当時、東大・東京外大・早慶などを破ってディベート大会で優勝する、
など輝かしい成績をたくさん残していて、
日本で英語力を鍛える最適な場かもしれない、と思ったからです。
ちなみにここで僕がなぜ「英語」の講師を目指したかというと、
「一番苦手な科目だったから」です。
一番得意な教科は数学で、大好きでしたが、教えたいとは思いませんでした。
昔から得意な分、苦手な人に共感しずらくなっていたからです。
一方、英語は、
「興味をもてない」
「授業についていけない」
「アルファベットの羅列を見るだけで吐き気がする」レベルでしたので、
苦手な人の気持ちがとてもよく分かります。
そして英語ができなくてできなくて苦しんだからこそ、
「英語のせいで夢がかなわない」人を救いたいという思いが人一倍強くなっていったのだと思います。
大学に行ってからはESSに入り、ひたすら英語の勉強をしました。
大学一年で参加した、人生最初の通訳コンテストでものすごい恥をかいたのを、
今でも鮮明に覚えています。
20秒くらいの英語のニュースを聞かされて、
すぐに日本語に直さなければならないのですが、
全く英語が聞き取れず、僕のメモには一言「ロシア」とだけ書いてありました。
大観衆の中、「ロシアが・・・」と通訳をはじめて、
何とか物語をでっちあげようとも思いましたが、頭は真っ白。
「ロシアが・・・ ロシアは・・・」と何度も「ロシア」と繰り返しながら、
1分位の沈黙の後、「That’s all. Thank you.」と通訳を終えてしまいました。
ものすごく恥ずかしい思いをしたのと同時に、
あんなに英語の勉強をしたのに、
全くリスニングはできるようになっていない、受験時代の勉強を悔やみもしました。
※ ちなみに後でこの時のスクリプトを見せてもらったところ、
「ロシア」という文字はどこにもなく、「ロシア」すらも聞き間違えだったと知り絶望しました。
後に通訳セクションのチーフとなる僕の最初のコンテストでした。
これは今でも「ロシア事件」と部員たちの間で語られているようです・・・。
そんな最低レベルの英語力からのスタートでしたが、
大学時代はとにかく頑張りました。
毎朝7時に部室に集まりCNN(英語ニュース)を聞き、
昼休みはご飯など食べず集まって英字新聞など。
夜は18時~21時までみっちり毎日スピーチやディベートの練習。
これは、遅刻・欠席をしたら強制退会という厳しい管理の元行われていたので、
恐らく、日本で一番本気で英語を勉強する集団だったのではないでしょうか。
北九州大学ESSを選んで正解でした。
大学時代は、毎晩毎晩、
予備校講師となり、生徒の成績をぐんぐん伸ばしている自分を妄想しながら寝ていました。
英語だけでなく、ボランティアで小学校に行ったり、
日本語講師の資格をとったり、
「教育×英語」に関係ありそうなことは何でも進んでやりました。
とにかく早く予備校講師になりたくてウズウズしていましたが、
「社会人になったら、いくらでも授業できる。今は今しかできない経験を積むべき」
と自分に言い聞かせ、塾のバイトは週1以上入れないようにしていました。
大学時代の頑張りは以下のように現れました。
・ 通訳セクションチーフとして通訳コンテスト優勝多数。
・ 全国レベルの北九大ESSのディベート大会で、出場数100人の中からオールスターに選抜される。
・ 卒業旅行として行った、ほぼ初の海外旅行となるインド一人旅でインド人と対等に英語で渡り合い、
「おまえは本当に日本人か?アメリカで生まれ育った日系アメリカ人だろう」と言われる。
・ 卒業論文『被害受け身文の考察 ~日英比較を通して~』はゼミの担当教授より
「大学レベルをはるかに超えてる。大学院で十分通用するレベル」と絶賛される。
特にゼミの先生は学部で一番厳しい先生を選んでいたので、すごく嬉しかったのを今でも覚えています。
大学を卒業してからは、正社員として、秀英予備校に就職します。
配属は「大学受験部英語科」名古屋校。夢の予備校講師生活がスタートです。
秀英予備校では、研修を通して講師としての基礎を教わりました。
毎週2回、英語科教師で交互に模擬授業を見せ合い、
見学者からフィードバックを行う全体研修と、
マンツーマンで知識や授業方法を教え込まれる個別研修がありました。
非常に充実した研修制度で、ぐんぐん授業力が向上していきました。
その具体的な成果として、
予備校講師1年目の夏期講習の生徒アンケートで、いきなり名古屋校1位を獲得。
華やかな予備校講師デビューを飾ることとなります。
2年目は浜松校に配属。
授業以外の事務の仕事も増えてきて忙しくなってきた矢先のことです。
突然、父が交通事故で他界します。
また、ほぼ同時に母がC型肝炎にかかり、母の看病も兼ねて福岡に出戻りすることになります。
地元福岡で、予備校講師非常勤講師生活がスタートします。
出講予備校は四谷学院と北九州予備校です。
秀英予備校で培った授業力を糧に、1年目から締切講座を連発しました。
以下は北九州予備校1年目夏期講習のアンケート結果です。
以下、パーセントは授業満足度です。
<1ターム>1限目 60/64 93.8% 2限目 68/68 100% 3限目 89/89 100% 4限目 12/12 100%
<2ターム>1限目 27/27 100% 2限目 92/94 97.9% 3限目 17/17 100%
<3ターム>1限目 87/90 96.7% 2限目 40/46 87.0% 3限目 66/66 100%
<4ターム>1限目 98/104 94.2% 2限目 18/18 100% 3限目 66/69 95.7% 4限目 103/103 100%
大御所の方から、「この数字は講師全体で1位、悪くても2位だろう」という声を頂きました。
順調な講師生活の出だしでした。
しかし、3年目以降、授業の調子が悪くなります。
アンケ―トの結果はあまり変わっていないのですが、活き活きと授業ができなくなるのです。
最初は「何か授業をしながら感じる違和感」の正体に気づきませんでした。
しかしある心の葛藤が意識下に蔓延っていることに段々と気づいていきました。
それは、「日本一の予備校講師」という目標と、
「一人一人の成績を本当に上げる講師」という目標に、うっすらと感じる矛盾でした。
「大教室での授業に対する迷い」です。
一方この間、
・ 予備校界のトップブランド、東進ハイスクールの講師オーディションに合格
・ 予備校講師を目指すきっかけとなった「講師の代ゼミ」代々木ゼミナールに合格
・ 東京・横浜・九州と出講校舎が広がり、毎週、飛行機通勤・新幹線通勤
・ 名実共にトップの英語講師、関正生先生と共著で大学受験参考書を出版
を達成。一見予備校講師として順調に階段を上っているように見えるかもしれませんが、心の葛藤はずっとありました。
この時、授業での迷いと心のバランスをとるかのように、2つの新しい挑戦を始めます。
① 大学生の英語力向上もサポートしたいという思いから、
S-ESS(斉藤によるESS)というボランティア団体を創設、
オンラインで全国の大学生にスピーキング・リスニング・発音指導などを無料で行う。
② 語学研修のサポーター講師として毎年1ヶ月ほどイギリスに出向き、
オックスフォード大学などの学生と日本の大学生が交流する場を提供するなど、
短期留学の支援をボランティアで行う。
2015-2016年で心機一転、予備校の授業を減らし、自分で事業をしていくことになります。
『オンライン英語スクールOPETS』を立ち上げ、
最高に結果が出る「教育」×「英語」の環境作りに乗り出します。
OPETSでの成果として、2015年8月下旬、初期メンバーを集い、英検準1級合格コースがスタート。
1ヶ月半で英検準1級合格、
という無謀ともいえる目標を掲げたにも関わらず、99点中7割前後合格の試験で、
わずか1ヶ月半で平均20点の伸びを見せ、半分の生徒が合格しました。
不合格者も「あと1点」などで非常に惜しく、全員が激伸びしたのです。
この伸びを見て、
「たくさんの人の夢をかなえるお手伝いをしていきたい」
「英語力が最高に上がる場を提供したい」
という思いが実現できるのはここだ!と確信しました。
高校までの全く英語が分からなかった経験、
大学受験を経てもリスニング力は壊滅的だった経験、
英語嫌いなくせに、留学ナシ&海外旅行経験ですらほぼゼロの状態で、英検1級レベルに到達した経験、
予備校講師として伸びる生徒・伸びない生徒を計1万人近く見てきた経験、
全ての経験を活かし、生徒さんの英語力向上に貢献できる舞台がようやく整いました。
もう、迷いはありません。
『OPETS』本格始動に乗り出します。